小論文「「川へはいつちやいけない」のは誰か?」〜谷崎とメルロ=ポンティ。

今年の小論文「「川へはいつちやいけない」のはだれか?」と、そこから始まる、ブキッシュなメモリー・レーン...;)
平中悠一 2025.05.23
読者限定

今回はわりと普通にニュースレターというか、ソーシャルメディアにも書いていますが、昨年書いた小論文が査読済みで公開されましたので、まずはその紹介から:

旧所属の東大総合文化言語情報科学の学会誌『言語態』19号掲載、ということですが、印刷物の刊行は今号よりなしということで、東大リポジトリにて誰でもpdf版が自由にダウンロードできます。

今回も博士論文『「細雪」の詩学』からのスピンオフ(笑)で ←同論文で試みた比較ナラティヴ理論という方法論を使うことで、さらに具体的には何ができるか、バンフィールドの論じたヴァージニア・ウルフ、『「細雪」の詩学』でも論じた谷崎「卍」に加え、国語教材としてもおなじみの宮沢賢治「オツベルと象」をテクストに用いて、より多くの人に興味が持てるように...というつもりで書いてみました。

タイトルにも選んだ「オツベルと象」の結末には、不思議な感覚を覚えた思い出のある人も多いのでは。この小論文ではその〝不思議な感覚〟の根拠をナラション分析によって標定します。

どうしてこの結末がそんな、思い出に残る感覚を生み出すのか、テクスト、文章、語り(ナラション)の構造から基礎づけました。ぜひ一度読んでみて下さい。面白いと思ったら、ソーシャルメディアや口コミでw どうぞお友だちにもご紹介下さい。

今回は特に、国語の先生や、高校生などにも読んでもらえるといいと思うので、お心当たり、お知り合いがいたら、どんどん紹介をお願いします。

↑↑の「オツベルと象」の結末部分の分析は、実はTwitter初期、おそらく15年以上前にtweetした内容がそもそものアイディアになっているのですが、なかには覚えている方もいらっしゃるかもしれませんね...。

あの時は、方法論としてはナラトロジー一本で分析しましたが、今回はその後のノン・コミュニケーション理論の研究を踏まえ、両論を用いた〝あわせ技〟で分析することで、さらにソリッドな議論になったと思います。

***

この小論文の公開が連休中にあったため、それまでの作業を中断し、ソーシャルメディア、公式HPでの紹介や、お世話になった先生方へのご挨拶のメールを書くなど、五月雨式に行い、特にメールにはお返事を下さった方々もあって、そのお返事へのまたお返事も書いたりして、今月はなかなかこちらのニュースレターに取り組めませんでした。

しかし、面白かったのは、メールやHPにあれこれ紹介を書いてると、気づけば事前には考えていなかったことまでいろいろ書いていたことです(笑)

ただただ、ご報告のつもり、何も新しいことを書こうというつもりはなかったのですが、たとえばHPには、

〈詩学〉とは、すなわち、あらすじとか、人物とか、設定とか、舞台とか、それぞれの作家(著者)の人生や「いいたかったこと」etc., etc. といった人の目をひく、表面的な見かけの底にある、普遍的な原理を解き明かすもの

という、まぁ、一度書いてしまえばあたりまえの話みたいですが(笑)非常に判りやすい「詩学」の定義を書いてしまいました(笑)

...この定義には、あるいは心理的な抵抗感を持つ人もいるかもしれない、とも思うのですが、しかし考えてみれば、ヴァージニア・ウルフと谷崎と賢治という、明らかに、言語的にも、文化的にも、文学的に追求していた美学、書こうとしていた・書いた作品も、また作家としての環境、背景、人生も、まったく異なる作家たちが、実は同じ(この小論文で扱った部分でいうと)物語内ナラターの機能を使ってそれぞれのやりたいことをやっている、ということで、

まさにこれこそ、表面的な違いの底にある普遍的な文学行為、といえるのではないか、と思います。

(なお、小論文ではナレーション、ナレーターという用語で統一していますが、これは文字数の制限がある査読付きの投稿論文では、ナラション、ナラターというフランス語由来の表記をあえて使用する根拠を明示するより、もっと他の部分を補強したいからです;)

そこで話はまた谷崎に戻るのですが(笑)

まさにこれは(↑↑何か新しいことを書くつもりはなかったのに、書いてしまった、という今回の経験は)谷崎が『文章読本』で述べていた、

最初から頭の中に書きたいことがあればいいのですが、実際には、書いているうちにこうなった、ということもある、という、その典型的な実例です(笑)

...前回の話題ともこれは繋がりますね。前回、この話に行かなかったのが不思議なくらい。。w

***

『『細雪」の詩学』の脚註では、谷崎のこの考え(書いているうちにこうなった)を「構造主義的」、と書きましたが、いま改めて考えると、ここにはもう少し説明が必要だったかもしれません。

僕が仕事を始めた頃から20歳過ぎくらいの頃というのは、大変な「現代フランス思想ブーム」でした。日本のマスコミでは「ニュー・アカ」と、「ブラバン」式の中学生的略称が盛んに用いられていましたが(笑)同時に「ポスト・モダニズム」、「ポスト構造主義」とも呼ばれていました。

「ポスト」というのは、その後の、ということで、要する、その当時、僕が若い頃のマスコミでは、モダニズムや構造主義は終わって、その次の新しい主義・思想が到来するのだ、という、いかにも80年代的な、「予告編」的なかたちで、70年代以降のフランス現代思想がもてはやされていたわけです。

(80年代が予告編的な時代であった、というのはこちらのインタヴューなどにも拾っていただいた、『シティポップ短篇集』の巻末解説にもつながる観点ですが。。;)

しかし、たとえば、「ポスト構造主義」といわれたら、それでほんとに構造主義が終わった、ということなるでしょうか?

つまり、たとえば、ロラン・バルトが「著者は死んだ」といったから、著者は死んだ、

この記事は無料で続きを読めます

続きは、3396文字あります。

すでに登録された方はこちら

読者限定
「本音」なんてものがあると考える自体、もはや前世紀的(でなかったら、言...
読者限定
音大を出たら食えないのは当たり前か?
サポートメンバー限定
HPを更新。あと最近買った本とCD(笑)
読者限定
〈ナラティヴ〉と「ストーリー」はどう違うのか?
サポートメンバー限定
女の子の匂いについて。
読者限定
「英語」の時代の終わり。(2/2)
サポートメンバー限定
「英語」の時代の終わり。(1/2)
読者限定
「あなたなんか」と「きみのこと」