私の身体、このスマホ、この投票用紙。
選挙関連のコメントを結構threadsにしたので、例によってChatGPTでまとめてnoteに上げておきました。
それで、一応“人間編”も書いておこうか、と思うのですが(笑)
わりと論点は絞って、まず、今回ネットニュースを見ていると、芸能人やミュージシャンが「自民・維新」に以外に投票して、とポストして、「上から目線」などと顰蹙を買っているのがかなり目につきました(笑)
芸能人が語る「平和」は、上から目線なのか?
しかしこれは「上から目線」というよりも、
要するに、芸能人やアーティストは、自分たちの仕事が平和に支えられている、平和に基礎づけられている、ということを、体感として知っている。
だからこれは、かなり切迫した、痛切な声、と理解するほうが本当です。
もちろん戦争協力で出世する芸術家もいるし、戦争で文化や文明は「発展」した、という逆説を唱えることも可能です。
しかしそれは、どちらも本筋ではない。結果から見るとそう読み解くこともできる、という話です。
(その人の人生に戦争があった事実は変えられないし、戦争のない世界がこれまでなかった以上、戦争がなかったら文化や文明は発達しなかった、と論証することもできないわけです)
「力による平和」は、「力による闘争」を内蔵している
前回に詳しく書きましたが、武力、いわゆる“力による平和”は、必ず戦争を呼び込みます。
なぜなら力による平和は、力による支配を正当化するものだからです。
それは、その力に対する別の力のチャレンジも正当化する。つまり、構造的に、“力による平和”は “力による闘争”を内蔵しているわけです;)
だからこれに反対しない芸術家や芸能人は、自分の仕事の本質が判っていない、洞察力の低い人、考えの浅い人だ、ということになります(とはいえ、この低い浅いは、作品の価値とは相関しません。芸術は、作者の見識が高いからいい作品が作れる、というものではないからです)。
核抑止は「昔話」と同じ構造のフィクション
武力による抑止力は“フィクション”である、
というのは、昨夏広島県知事が論じた通りです。
フィクションというのは、たとえば「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」という時に、「いた」というのだから、「いた」ということにする、という、ある種のルール、申し合わせ、いわば、“ごっこ遊び”のようなもの。
それを人類の普遍的な文化、と呼んでもいいし、フィクション化(物語化)こそ人間の世界理解可能性のマトリクスのひとつである、と論じることもできるだろうと思います。
しかしそこには、“現実”による支えはなにもない。
抑止力も同じで、「ある」といえばあるし、「ない」といえば、ない。
それはハマスが、そして日本が真珠湾で証明した通りです。
「でも核抑止力はこれまで一度も破られていないでしょ?」といえば、そうだけど、さて、これが、20世紀戦後の西側諸国の価値観を放擲し、 “力による平和”を肯定する世界となれば、どうなるか。
しかし、それでも、「反戦平和を願うだけでは、反戦平和は実現できない」
この前回の問にあえて戻ると、
じゃあ、もう少し現実的に、日本は核武装して、中国と拮抗するだけの核弾頭をもつのか?
それに何年かかるのか? その間、みんなに優しく待ってもらえるのか?w
...たとえば中国があれだけ核兵器を持ってるのに、日本が少々軍拡して、
それで抑止力になる、と考えるほうが、やや子供じみているのではないでしょうか。
「数はちょっとでも、ちょっとくらい抑止になるはず...」などといい始めると、それがほんとに「現実的」な思考なのか。。ややファンタジーランドに入って行きます(笑)
「やるべき戦争はやるべき」——それは議論ではない
「やるべき戦争は、やるべきだ」といまの若い人は考えているかもしれません。
しかしこれは、トートロジーであり、論点先取です。
論点先取は、論証すべきことが前提に入っている無効な議論で、こういうことを論述のなかでやっていると、欧米の大学ではマスターやドクターには上がれません(笑)
やるべきことは=やるべきだ というのは反論可能性のない、自明の命題で、議論になっていないからです。
「責任ある積極財政」も「ムダを省く」も、すべてトートロジー
ムダを省く、というのも、ムダ=ムダ=不要、だし、
責任ある積極財政、というのも「責任ある」=よい積極財政、なので=よい
こういうのは、みんな論点先取であって、つまり、反論の余地もない。
よいことはよい、という、A=A (トートロジー)を、間違っているという人はどこにもいません(笑)
問題は、何がやるべき戦争で、本質的に、そんな戦争などあるのか?
まず、そこを問うべきで、
ムダなことを省くのは当然でも、じゃあ何がほんとにムダなのか?
責任あるって、どこにどう責任あるのか?
全部その、“そもそもの問うべき部分”が前提化されています。
「やるべき戦争」の場合も、
やるべき戦争が “あるとすれば”=やるべき、というかたちで、
やるべき戦争が「ある」 ことが、最初から前提された、不問に付された言述、ですよね。
反戦平和は頭の中がお花畑、とはよくいいますが、
では、軍拡によって、自力で守る、という考え方が、それほど現実的なのか? ということも疑問です。
もし核抑止のフィクションが今後も変わらず守られたとしても、ガザを見ても、ウクライナを見ても、戦争は起こるし、そこには芸術が花開くどころか、普通の生活もありません。
「戦争になったらどうするの?」ではなく、「戦争で負けたらどうするの?」
戦争をすれば、負けることもあります。
愛する人が殺されることもあります。
やるべき戦争はやるべきだ、といって、前の大戦の時のように、負けてしまったらどうするの?
それで愛する人が死んでしまったらどうするの?
やるべき戦争はやるべきだ、という時には、そこまで考える必要がある。
戦争をやって、まさか絶対勝つ、と思ってるわけじゃないですよね?(笑)
じゃあ、戦争に負けた時のこと。愛する人が戦争で死んだ時のこと。そして、その後、それを引き受けて、自分がどう生きていくのか。
そこを考えなければ、「現実を見ている」とは到底いえないし、
果たしてどちらの頭の中がお花畑なのか、ということにもなるでしょう。
必要な場合は戦争もするべきだ、という人は、その負けた場合までパッケージで論じないかぎり、決して現実的とはいえないでしょう。
そうではなく、
“やるべき戦争”を前提化するのではなくて、いかに戦争を遠ざけるか。
そう考えることのほうがはるかに「現実的」ではないでしょうか。
既に見たとおり、「武力による平和・抑止」という考え方は、武力闘争を構造的に内蔵し、前提化する“悪手”だ、といえるでしょう。
「現実的な軍拡」の限界と、出口戦略の不在
「でも、現にわたしたちはアメリカの武力の、核の傘に入っていますよね? その現実を直視しないところはどうなんですか?」