それを「新しいリベラル」と呼ぶの、止めてくれませんか?
「新しいリベラル」ということばを最近ネットで目にする。
今週も新しく、こういう記事を見かけたが、そこでは「新しいリベラル」とは、次のように説明されていた:
弱い立場への給付を広げることより、社会全体の力を伸ばす成長支援を重く見る。高齢世代に偏っていた予算を見直し、子育て世代や次の世代にお金を回すべきだと考える。戦後民主主義の論点に強くこだわるわけではないが、非核三原則や多様性の尊重については支持を崩さない。
未来への投資を掲げ、防衛費の拡大にも理解を示す。その姿勢は、理想と現実の間で折り合いを探るものだろう。実際、彼らは高市首相が街頭で繰り返した「未来」への強い意志にも、チームみらいの安野党首が語る「仕組みごと改める」という合理的な発想にも反応した。右か左かという対立よりも、「次の世代にとって役に立つかどうか」を物事の判断基準に置いている。
(merkmal-biz.jp 強調は引用者)
これを「新しいリベラル」と呼ぼうとする、その根拠はゼロではない。政府による富の再分配、社会正義の実現を願っているともいえるし、どちらかといえば平和志向でもある。
しかし、明らかに、こんなものはリベラルではない(笑)
その理由は様々に述べられるが、いちばんの根本は、リベラルとは主義であり、思想であって、ところがここには思想と呼べるものは、なにもない。
ある種の「現実主義」とはいえるかもしれないが、その〝主義〟は「現実」に合わせていかようにも変わりうる。ちょうど「中道」と同じように、それは相対的な〝位置どり〟であって、〝明日どこにあるか〟も定かではない。それは、リベラルが主義であるような意味での「主義」ではない。
「役に立つかどうか」なら、「功利主義」ともいえるかもしれないが、それもリベラルということを意味しない。
日本的な伝統(因循姑息な、と形容してもいいが;)より、多様性、つまり個人を重んじるといえるかもしれないが、しかし、本当に重んじているのは「個人」だろうか?
「次の世代に資金を振り向ける」という訴えを前に出した。右か左かという争いより、未来のどこに資源を投じるかという軸で人びとが共鳴したと見るほうが自然だろう。
と記事は述べている。しかし、この人たちが年金生活者となったとき、なお「次の世代に投資せよ」といい続けるだろうか?「次の世代に役に立つか」否かを価値判断の基準として高らかに掲げ続けるだろうか?
仮にそうでないとすれば、ここには思想と呼ぶべき確固たるものはなく、一貫した主義と呼べるものが何かあるとするなら、それは「ミーイズム」であり「エゴセントリズム」といったものだろう。
この記事のことばを借りるなら、
〝それは「次の世代に資金を振り向ける」というより、右か左かなどどうでもよく、「俺(たち)に金を回せ」という軸で共鳴した人びと(=俺・たち)と見るほうが自然〟
ではないだろうか。
要するに、「新しいリベラル」とは、近年ポピュリズム界隈を席巻した、「手取りを増やす」党の「現役世代」や、極右ポピュリストの「日本人ファースト」と同じく、巧みな言い換えによって、本来そのままでは口にできない問題発言のたぐいを「政治的に正しい」スローガンに変換する、巧妙な(見事な)ユーフェミズム、言い換えのまたひとつ、に見える。
これは作年、threadsに書いたポストだが
アメリカ・ファーストも、都民ファーストも、日本人ファーストも、結局は、自分ファースト。
アメリカとか都民とか日本人というとあたかも「みんな」のためのようだけど、
それは「みんな」じゃなくて「私たち」
一人称の複数形でしかない。それを「みんな」と混同する人称感覚の弱さが現代日本語にはある。
自分の利益は私利私欲だけど、「会社」という集団のためなら「みんな」のため、という正当化ができる...
つまり、それは排他的な一人称複数(現代日本語ではあまり使用されないが「手前ども」)で
Sociétéという一語を「社会」と「会社」に訳し分けた時、「みんな」が「自分たち」に転換された。
そこで「みんな」実は「自分たち」のための利益をどこまでも追求し、「みんな=自分たち」に入らない他者を蹂躙しても心が痛みにくいメンタリティが生まれる。
〇〇ファーストに共感する人は、結局〝自分ファースト〟に共感してるだけの、自己本位、エゴセントリックな人になる危険性がある。
threads.com/@yuichihiranaka 2025/07/06
「手取りを増やす」がキャッチフレーズの党が広めた「現役世代」という〝階級〟名も、
真の国民 vs 二等国民(=年金受給者と外国人労働者)の対立の構図を〝正当な〟投票行動に変換するため、そのままでは物議をかもす呼称「真の国民」を、ソフトに、もっともらしく「現役世代」と呼びかえたものにほかならない。
人は永遠に若者ではいられないのと同様、永遠に「現役世代」でいることはできない。
「若者」よりは、多少滞在時間は長いかもしれないが、「若者の権利」を主張する若者と同じく、声高に主張しているうちに、自分がそのステータスから外れてしまう。
その時になお、変わることのない熱意で「現役世代」への「投資」を支持し続けたとき、初めてそれはミーイズムでもエゴセントリズムでもない、ひとつの立場となるだろう。
その覚悟があるなら別状、さもなければ、それは要するに「俺たちに」...詰まるところは、「俺」に「金を回せ」という話でしかない。
「将来のため」と言いつつ、その対象が「自分たちが現役である期間」に限定されているなら、それは普遍的な「未来」への投資ではなく、単なる一人称、ないし一人称複数の私利私欲にすぎず、それは「主義」でも、「思想」でもない。
「新しさ」など微塵もない、むしろ過去の亡霊のような「手前ども」の、排他的な利益をスマートな言い換えで頬かむりし、正論であるかのように主張する、利権集団でしかない。
上の記事にあるよう、もしこの「新しいリベラル」がこの国でいま「もっとも多い」事実上の多数派となっているなら、
それは要するに、この国からイデオロギーが、なかんずくリベラリズムが退場した、という、ただそれだけのことであり、
このエゴセントリストたちの新興勢力を「新しいリベラル」などと呼ぶのは、あまりにも丸出しのマーケティングではないだろうか。
選挙後の報道で、新首相がカタログギフトを議員に配った、という話は、まさに今の政治状況を象徴、または、はからずも戯画化している。
そこで、ふと思い出したのは、パリでフランス語を習った先生のひとりのことばだった。
このひとは、パトリック・モディアノと同い年で、つまりmai 68、日本でいう「五月革命」当時に、まさにパリ大の学生だったひとなのだが、
モディアノ作品を僕がパリで翻訳した時には、ほとんどパラグラフごとにフランス語で話して、意見を聞きながら、決定稿を作っていった。
もちろんフランス語で話したことだから、最終的にそれが十分日本語に落とし込めていない場合はあるが、僕の人生の中でも、翻訳者としても、本当に貴重で、得難い時間だったと思う。
パリ大の博士課程で知り合った、20代や30代の若いフランス人とは、やはりフランス語の感覚が相当違い、単語や文に対して持つ印象がまったく違う、という部分が想像以上に多く、とりわけモディアノを訳すにあたり、同じ青春時代をパリで過ごしたひとのフランス語観を思う存分聞くことができたのは、今にして思えば、望むべくもない幸運だった。
そんなパリ左岸の、ブルヴァール(大通り)に面した宏壮なアパルトマンの2階に住むマダム、かつての1968年5月事態の経験者に、僕は何度も訊いてみたことがある。
たとえば、僕がパリに住み始めた最初の頃、「パリは燃えている」と世界に報じられたCPE。あるいはマクロン政権以降で記憶にもまだ新しい、ジレ・ジョーヌの美しいパリ市を破壊するような激烈なデモ...。
「小さな五月革命」といったことばが決まって新聞にも踊る。
いまのパリ、この状況は、68年を実際に知っているあなたにはどう見えますか、と。
そのたびに、彼女の答えは変わることなく、簡潔だった。