「陰謀論」とナラティヴの関係〜物語理論から見る「陰謀論」の“無敵”のしくみ =テストラン2=
「陰謀論」との関係で、時事用語ともなった「ナラティヴ」。
「ナラティヴ」とは何か、その特徴、機能、仕組みを問題の「陰謀論」との関係それ自体から考えてみる、草稿シリーズ第2回。
今回で、なんとか、理論的な基礎をまず、大まかに一旦押さえてしまいたい、と思います;)
フィクション物語には「参照対象」がない...、ということは、つまり、何かを写したものや、「写像」ではない、ということで、そこがフィクションとノン・フィクションの違いです。
谷崎が『文章読本』に書いているとおり、頭の中に物語がまずあって、それを取り出している、というわけでもありません。むしろ書きながら物語はかたちを表してくる。
もし「表象」ということばを「代理、代表、再現前」という意味で使うとしたら、フィクション物語の叙述(ナラション、語り)では、その元になるものがなく、「表象」では決してない、「表象」ということばは使えない、とさえいえるかもしれません。
前回書いたように、モデルはヒント、アイディアの元(ソース)であって、「参照」対象ではありません。参照は、引用元が明確で、正誤の確認が可能な場合をいいます(たとえば、脚註に、ある本の「何ページを参照」と書いてあって、その本のそのページを見ても引用したことが載っていなければ、その脚註は誤っていることになります)。
つまり、ノン・フィクションは現実を参照して、それが正しいか間違っているか、確認できる。要するに「検算」できるわけです(笑)
一方フィクションは、現実を(内容として)参照していないので、「検算」できない。この検算不可能性が、フィクションの大きな特徴です。
それが〝物語(ナラティヴ)の言語〟で語られたフィクション物語となると、現実で「検算」できない内容が、現実から切り離された言語によって語られる、ということになります。
とはいえ、物語は、現実からまったく自由である、というわけではない。
人は、物語を読む場合、現実のロジック、辻褄を当てはめて読んでいく。小説家も、その読者の読み方を前提に、小説を書きます。
これが「ミメティック・バイアス」の問題です。
「ミーム」ということばはソーシャルメディアで有名になりましたが、形容詞のミメティックは模倣的、という意味で、バイアスとしては、たとえフィクション物語であっても、それは現実を模しており、現実に準じているはずだ...と現実を基準に、類推的に考えるバイアス、先入観のことです。
たとえばパズル・ストーリー、推理小説などでは、殺人事件が起こると、そこには必ず犯人がいます。
もちろんフィクションなので、現実には、誰も死んでいないし、誰も殺していない(笑)
だから、なんなら「これはフィクションなので、犯人はいません。誰も殺していませんでした」という結末を書くことだって、できるはずです。でもそれでは、そんな「推理小説」、誰も読まないでしょう(笑)
物語は、内容は完全にフィクション、虚構、作りごとであったとしても、現実のロジック、辻褄、たとえば因果律にしたがって書かれている。これが物語を読む時、そして作る時の、文化的な慣習、約束ごとです。
もちろん、高度な文学作品は、この枠組自体を揺さぶってきます。実はそこが文学の一番面白いところのまたひとつで(これを中山理論 p. 143では「ロマネスク」な快楽、と呼んでいましたが)、