「英語」の時代の終わり。(2/2)
試験問題に数学を採用して数学的思考ができる学生を集めたほうが、結局論文など論理的な文章を書く力もあり、能力が高くなる、
という話から始まった、今回のニュースレター。1/2ページに続く、2/2ページ目、結論部まで。
一見遠そうに見えるかもしれませんが、結論としては「文学の力」というところまで行きますので(笑)人文関係の皆さんはもちろん、理系の方も、ぜひ最後まで、読んでみてください。
アメリカの大統領の演説の英語くらい、またフランスの大統領の演説のフランス語くらい、判りやすい英語、フランス語はない(訛っている場合はあるとしてもw)。どちらも共和国の共通語で、誰にでも判ること、英語、フランス語がそれほど流暢ではない新参の市民にも理解できる、ということを旨として話される言語だからだろう。
僕がはじめてリアル・タイムで英語で聞いた米大統領の演説はクリントンで、その後のオバマももちろん本当に聞き取りやすい英語を話してはいた。
しかしそれでもはっきりと現大統領の英語とは違っていた。
今回のものも前回のも全体は聞いてはいないが、トランプ45代目(前回)の就任演説を、CNNでコロンビア大の言語学の先生が解説し、ここにはぎりぎり文学的、といえる表現が1個所あるだけだ、と指摘していた(そして、これは典型的な、本を読まない人の書く文章だ、ともw)
...ネットで簡単に検索できるので、その問題の、「ぎりぎり文学的」という部分を引用しておくと;)
And whether a child is born in the urban sprawl of Detroit or the windswept plains of Nebraska, they look up at the same night sky, they fill their heart with the same dreams, and they are infused with the breath of life by the same almighty Creator.
うーん。どうですか。
ほとんどいわれなければ気づかない。。というか、たとえ「ぎりぎり」だとしても、なぜこれが「文学的」と判断されるのか。文学研究を、それも欧米でやったことのない人には、ひょっとして即答できないのではないだろうか?(その答えは、